マキアヴェッリによれば、
【気前が良いとみられるのは好ましいであろうが、しかしながら気前良さが人々の考えるような仕方で実行に移されると有害である。なぜならば適切かつ望ましいような形で気前良さを発揮する場合、その気前良さは人々の気づくところとはならず、かえって反対の汚名を免れることができないからである】という。
何故か。
一般に君主が気前良いということは財産分与に当たる。その財産はどこから出るかというと、自己の財産か、自己の臣民の財産である。自己の財産には限界があるかぎり、最終的には自己の臣民の財産を使わなければならなくなる。つまり、重税を課すしかなくなる。その結果、自己の臣民から憎悪されることになる。しかも、その状況を認識し改めようとすると、
【直ちにけちという悪評が生ずることになる】。
このような状況であるから、
【君主は害を蒙らずに、しかも人々に明らかであるような形で気前良さという美徳を示すことができない。したがって賢明な君主はけちであるという評判を気にすべきではない】のだ。
マキアヴェッリは言う。
【節約によって歳入が増加すると外敵からの防衛も可能となり、民衆に重税を課することなく事を起こすことができるようになる】。それゆえ、
【彼(君主)
は多くの人々から何物をも奪わず、したがって彼らに対して気前良く、これに対して小数の者に何者も与えないという意味で彼らに対してけちであることになる。当代において大事業をなした人々は例外なしにけちという評判のあった人々であり、その他の者は滅亡した】のである。
ゆえに、
【実にけちは統治を可能にする悪徳の一つである】。
また、こうもいう。
【軽蔑されること憎悪されることは君主が警戒すべき事柄の中に含まれるが、気前の良さはこの二つを生み出すことになる】。だから、
【気前が良いという評判を得ようとして強欲であるという評判を得る破目に陥るよりも、憎悪を伴わない悪評をもたらすにすぎないけちの評判を得るほうがより賢明である】のだ。
ところで、気前良いことが美徳になる可能性もある。それは、これから君主になろうとしている場合である。すでに君主になっている者の場合気前良さは上述したように有害であるといえる。しかし、これから君主になろうとするものにとっては気前良さは有益である。マキアヴェッリは
【その人が君主になっているか、それとも君主になろうとしているかを区別し、第一の場合には気前良さは有害であり、第二の場合には気前が良いという評判はどうしても必要である】といっている。
【一般に君主は自己および自己の臣民の財貨を費やすか、あるいは第三者のそれを費やすものである。第一の場合には節約すべきであるが、第二の場合には気前良さは大いに発揮すべきである。そして君主が軍隊とともに進軍するに際して戦利品を得、略奪を行い、貢納を命じ、他人の持ち物を処分する場合には、気前良くする必要がある】。それは、
【他人の財貨の蕩尽は名声を奪うどころか、かえって名声を高めることになる。有害なのは自己の財貨を蕩尽する場合だけである】からだ。
参考文献
『君主論』 ニッコロ・マキアヴェッリ 佐々木毅・全訳注 講談社学術文庫作成:08年11月25日